ホームステイとは、何のために行くのか? 

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■ 1 教育の一環として
■ 2 ホームステイの特殊性
■ 3 中学生の場合
■ 4 何のために
■ 5 終わりに

執筆者: 南日本カルチャーセンター 代表取締役社長  濱 田 純 逸

■ 5 終わりに

 最後に、第三項と第四項で述べました「情報量」と「日米の価値観の相違」の問題について、さらに敷延して述べてみたいと思います。一般的日本人の風潮の中に、欧米人や欧米文化に対するコンプレックス、憧憬や偏重が見うけられることを、私共は職業柄、大いに痛感いたします。日本における国際化とはすなわち、欧米への追従でしかないとか、西洋化であるなどの指摘があるのは、これらのことを反映しているわけです。例えば、私共の会社に、留学相談で来られる方々が、多くいらっしゃいますが、その方々に共通するのは「安易さ」と「甘美な憧憬」とそして「逃避」であります。(しかし、彼らはそれを指摘すると必ずと言っていい程、最初は否定いたします。)何故なら、彼らの希望していることは、「留学」ではなく、「欧米での生活」であることが多いからです。つまり、日本の大学を不合格になったことがきっかけで、留学への夢が膨らんだり、日本の大学を出て就職をしたものの、職場に馴染めず、自分のやりたいことは何かと考えたとき、留学であったという結論であったり、自己の可能性への挑戦と称して、それを留学に求めたりと、ほとんどが安易な夢であったり、稚拙な判断であったり、場当たり的な結論であったりすることが、余りにも多すぎるのです。留学担当のセンター職員のわずかなカウンセリングを受けると、安易さと憧憬は、すぐに払拭されるのですが、逃避は自己暗示と自已陶酔が、その留学志望の中枢を占めているため、それを認めようとはされません。彼らの志望動機の多くは、「外国へ行って、現在の自分自身を打開したい」というようなものが多いわけですが、確かに、聞きようによっては理のある決意ともとれますが、「現在の自分自身」とか「打開」とかいう言葉が、あまりにも抽象的で漠然とし、目的意識すら明確ではありません。ですから、私共が矢継ぎ早に質問をすれば、あっという間に答に窮するといったような状態です。彼らの意図は「自己打開」かもしれませんが、私共から見れば、「自己逃避」であり、そして、その意図の中には、欧米文化への憧憬と偏重が存在いたしております。何故ならば、必ずといっていいほどその目的国は、欧米だからです。世界には200近い国があるにもかかわらず、日本人が留学先として選ぶ国のほぼ100パーセントが、欧米であるというのは、余りにも偏っているとしか思えません。

これまで各項で、私はアメリカに関して述べてきましたが、決してアメリカナイズされているわけでもなければ、アメリカを絶対化しているわけでもありません。そこから何かを吸収するのなら、当然のことながら、日本と比較の中において、その国のあらゆる異質のものを、相対的に学ばなければならないと考えております。前項でも若干ふれましたが、アメリカの教育観と日本の教育観においては、歴然とした相違が見られます。それは、ある視点からすれば、正反対の価値観を有するものだと断言できます。例えば、先述の「積極性」と「謙虚さや謙譲」の問題であります。同じ人間同士でありながら、国が違い、異質の文化を持つということで、ある意味では正反対の理念が対峙していることは、興味深いことであると同時に、国際関係の中では相互に尊重し合わなければならないことであります。これまで私は、ホームステイの価値について、各項において説明してまいりましたが、ここにその危険性についても言及しておかなければなりません。異文化を体験することの大きな落とし穴があります。

一国における理念や美徳に固執し、それを堅持することは、相互理解を拒否し、その価値観は依然としたままであり、ファシズムのようなものであり、それは自文化中心主義、もしくは、自民族中心主義といったような考え方であると説明できます。それらの視点に立てば、「日本における美徳は、あくまでもアメリカでも美徳であり、アメリカの美徳は、日本の美徳でもある。」という絶対的な考えになってしまいます。確かに、このことは否定的に理解できるのですが、それでは、「アメリカの美徳は、日本においては悪徳になり得るし、日本の美徳は、アメリカにおいては悪徳になり得るものだ」と言う命題では、ほぼ同意に近い事なのですが、若干、理解しにくくなります。この視点と立場を文化相対主義と表現できそうです。つまり、相対的に文化を考えれば、一つのことが国によって異なる価値と意味を持ってくるという趣旨の命題になり、極めて常識的な視点であり、数多くの方はこの視点を支持できるでしょう。

それでは、それが何故理解しにくくなるかという説明に入りましょう。欧米文化の中でも、特に、アメリカの文化を体験した生徒や学生にとって、この命題は一層、理解しがたいという傾向があります。なぜなら、彼らの中には、潜在的なアメリカ文化の偏重と重視が、無意識に、アメリカ生活の体験という優越感と相乗しあい、日本文化の軽視が、盲目的に、さらに盲信的に始まる可能性があるからです。中学生においては、判断力と見る眼の稚拙さのため、極度に警戒しなければなりません。つまり、アメリカで異文化を体験して、そこで遭遇した様々な相違を相対的に見ることが出来ずに、単なる優劣、善悪で考えてしまい、アメリカが日本以上の先進国家であるという認識を論拠として、アメリカでの体験を金科玉条のごとく、自分の価値の最上級に置こうとするからです。つまり、アメリカ文化を中心にした「自文化中心主義」の視点で日本を見るということになってしまいます。彼らはホームステイにより、そのような危険性をも内包して帰国しているわけです。

さらに、「可塑性について」の項で申し述べました「豊富な情報量」についても同様のことが言えます。私は可塑性に富む時代に多くの情報を提供することが、国際人たる視野の広さを培うものであると指摘いたしました。しかし、異国での生活における、異文化の多くの情報の吸収は、帰国の段階においては何の整理や選択や思索もなされず、許容されるだけ、無秩序に受け入れられた形でなされております。それはあたかも、あらゆる分野の本を無秩序に、何らの思考もなされることなく、乱読した後の状態に酷似しております。すなわち、それら情報は、時間の経過と共に、忘却の彼方へ運び去られるだけでなく、最悪の場合、断片的情報の収積だけが残存し、究極的には、偏狭な見解を生み出すだけでなく、歪曲された形で事実や現実が、理解、把握される危険性が胚胎しております。既にお気づきのことと思いますが、以上のような内包する危険性を回避するため、帰国後の彼らを取りまく者の指導が、大いに必要となります。「将来はアメリカに留学したい。」と彼らが口をそろえて言うのは、単なるアメリカの生活に対する憧憬に過ぎません。そこには深い思慮があるわけでもなく、明確な目的意識があるわけでもありません。また「アメリカでは云々」とか、「アメリカ人は云々」とか口にするのも、一ヶ月間で垣間見たアメリカの極めて一部分にしか過ぎません。その一部分を持ってして、一般的なアメリカに言及する姿勢も大変危険であります。これら安易な言明や判断は、アメリカに対する過信と偏重と絶対視から来ております。彼らは、アメリカに行き生活し、日本に帰って来てはいますが、そのような言動は、アメリカの中でアメリカを見、日本の中で日本を見るといったような、二つの国を全く別のものとして考え、アメリカでの生活は、日本とは全く隔絶した所に存在していて、何ら関連性はないところのものであります。我々は、あくまでも日本人であり、日本に国籍があるわけですから、アメリカの実生活から学ぶなら、アメリカを通して日本を見、日本を通してアメリカを見るといったような立場でなければなりません。それが、日米間の相対的価値観を確立するものであり、アメリカでの生活体験の実質的成果の一つでもあります。そしてそれは、保護者の方々が望む、スケールの大きな国際人たりし器の原形とも言えるでしょう。この二国間に立脚した相対的な比較からなされる思索姿勢へ導くことが、帰国後における私共を含めた彼らを取り巻く者の使命の一つであると考えております。

最後に、これまで一万名を越える小さな外交官達を引率していただきました500名を越す引率指導者の先生方へ、その任務の困難さを知る者の一人として、心からの感謝をこめまして、この稿のペンを置くことといたします。ありがとうございました。

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