ホームステイとは、何のために行くのか? 

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■ 1 教育の一環として
■ 2 ホームステイの特殊性
■ 3 中学生の場合
■ 4 何のために
■ 5 終わりに

執筆者: 南日本カルチャーセンター 代表取締役社長  濱 田 純 逸

■ 3 中学生の場合

 中学生が、異文化の家庭にホームステイする際に、高校生、大学生とは異なり、中学生であるがゆえに、無条件に保有している理想的な特徴を、三つ掲げる事ができます。すなわち、一つは「環境に対する順応性」であり、二つ目は「無知・無恥であること」であり、三つ目は「可塑性に富む」ということです。もちろん、これらのことは中学生に限らず、小学生や高校生にも当てはまることであり、若いということだけで無限の可能性があるのでしょうが、思春期を迎える中学時代は、特に人格形成上、大切な時期であることは誰もが認めるところです。親元を離れて、国際社会を体感し、ホストファミリー宅での家庭生活や市民生活などの様々な体験は、その人格形成に多大な影響を与えます。それだからこそ、ホームステイに参加することによってもたらされるもの、また、中学生で参加することの特質を分析しておく必要があるのではないかと考えています。特に、私どものような主催する立場の考えと理念を説明することは、プログラムの本質を語ることでもあり、もっともっと、分析や研究がなされるべきなのでしょう。前項でも触れましたが、ホームステイの黎明期にあっては、中学生を対象としたものは皆無であり、ホストファミリーをお世話する現地の公益教育法人ですら、中学生の受け入れに対して、当初は否定的な見解を持っておりました。そんな彼らの考えを何とか説得して始ったのが、「アカデミックホームステイプログラム」であり、その実績の中で得られたものを説明してみたいと思います。

 (イ)環境に対する順応性

 当然のことながら、ホームステイの参加者は、まず、家族の一員になりきらなければなりません。しかしながら、その順応力は、中学生と高校生、高校生と大学生においては、歴然とした相違が見られます。中学生の場合、一両日もあれば彼らはその家庭の一員として、言葉以外は何の不自由も感じることなく、異文化の生活に溶け込み、ホストファミリーとの人間関係も、まるで本当の家族のようにふるまうようになります。ところが高校生にもなると、個人差はありますが、平均で約1週間前後、大学生ともなると10日から2週間、なかには1ヶ月のホームステイの間、ホストファミリーの前ではほとんどリラックスできなかったという学生さえおります。欧米文化は、特に肌でふれあう文化ですから、ホームステイする場合にも、家族の一員としてふるまうことが大いに求められるものです。ホストファミリーの目的は、参加者を通してその国の文化を知りたいということにあり、そして参加者の目的は、家族の一員として生活し、異質の価値や異言語、異文化を実感することである以上、言葉で理解しあえるかどうかということより、純粋に心を開いて、どれだけ親密に生活できるかということに、ホームステイの意義があります。

確かに、異質の習慣、文化、生活様式の中で、さらに、一ヶ月間も他人の家庭で生活するのは、年をとればとる程に窮屈なものです。その証拠に、例えば、40歳を越えた年齢の方々が、一ヶ月間に亘ってホームステイすることを想像されてみたらいかがでしょうか。おそらく、一ヶ月間もホームステイすることに抵抗を感じない方は誰一人としていないはずです。中には、たとえお金をもらったとしても、そんなことはごめんだという方もいらっしゃいます。そのような気持ちを大人達が持つのは何故か。それは、他人の家庭での生活は、自由が無く窮屈であり、しかも、それが外国の異言語下の異文化の生活ならば、なお一層困難と忍耐を伴うと思うからです。そしてその理由は、大人であるがゆえに、それぞれの長い人生経験と学習の結果、既成の価値観があり、固定観念が宿り、慣れ親しんだ方法があり、それらの既存のものが、それぞれの人生において機能しており、何の不自由もない現在があるからです。ですから、それ以外の、異質の、異なる方法による、異文化の価値や現実に興味がない限り、そのようなものをわざわざ体験することが苦痛であったりするのもうなずけます。だから、こんな年齢になって、そんな環境で一ヶ月間も生活するのは、地獄のようなものだと思うのが、一般的な保護者の年齢の反応でしょう。二十歳を越えた大学生が、保護者同様の思いを感じるとまではいかなくても、それに近い窮屈さを感じるのかもしれません。大学生が家族の一員としてリラックスできるまでに、時間がかかるということはこれらのことと密接に呼応しているように思えます。

でも、年齢が若ければ、そのような理解の仕方にはなりません。異なることが大人には窮屈と思える生活でも、中学生には、異なることが興味と好奇心の対象でしかないという皮肉な面があります。そして、若いがゆえに、価値観も固定的ではなく、柔軟性があり、異文化にも好意的な姿勢で臨むことが出来るわけです。また、逆に、異国の文化を学ぶためには、その生活に適応してしまうのが最良の手段でもあるわけですから、適応できない大人には地獄であっても、適応できる若者には天国ともなりうる、興味の尽きない、刺激的で、魅力のあるものでもあるわけです。すなわち、適応力、順応力のあるかないかは、そこの文化を吸収しやすいか、しにくいかの問題にもなるわけです。この点においても、年令が若ければ若い程、異国での生活による教育的成果は、発揮されやすいと言わなければなりません。何故なら、異なる価値を体験するということは、異なる価値の存在を知るわけであり、異なる方法を知ることであり、そこに相対性が生まれ、更なる創意と向上の中に、視野の広い、広大な人生観が醸成されるからです。これまで当たり前であったことが、当たり前でなくなる。これまで何の疑問も感じなかったことが、大きな疑問として感じられる。これまで見ていた風景が、全く違った価値を持ってくる。「異質」なものに触れるということは、既存のものをすべて見直すきっかけを作ってくれることになり、複眼的視野を身につける絶好の機会になるわけです。

 (ロ)無知・無恥であること

 日本人が内気で、消極的であることは、その国民性のひとつとしてよく知られた事です。それは「和をもってとうとしとなす」とする日本人の集団感、組織感も背景にあるでしょうし、農耕民族は生産することで生きてきており、天に支配され、生かされているという認識が、それらの特質と密接に関係しているのでしょう。そしてまた、島国という私達を取り巻く生活環境は、異文化を持つ民族と接触する機会を失わせ、先の国民性も手伝って、特に外国人に対しては極度に意識過剰となります。そのため、その機会に遭遇しても、潜在的に彼らとの接触を極力回避しようとする行動が非常に多く見られます。そこには内気な国民性と異民族に不慣れな対人観と、もう一つ「恥」を行動様式の核とする価値観が影響しているように思えます。すなわち、ルーズ・ベネディクト女史の指摘する「恥の概念」が特に大きな障壁となって、外国人と接触する機会に遭遇しても、それを活かす事ができずに終わってしまうのではないかと思うのです。

よく彼らは、その最大の理由が「語学力の不足」によるためだと自己防衛し、合理化し、説明しようとしますが、決してそうではなく、それが「恥をかきたくない」という、内面的意識の崇高さから来ると気が付いていても、思いたくもないのであります。その証拠に多くの日本人は、言語による会話そのものを拒否する傾向があるのであり、その言語は母国語である日本語と相手言語という二つの選択肢があり、当然、日本語による会話もその選択肢の一つであることを考えれば、「語学力の不足」という理由は起こりようもなく、異文化を持つ外国人との接触自体を回避する、何らかの別の理由があると推断できるわけです。そしてそれが「恥」の意識ではないかと推測するわけです。

ところが、この恥の概念は、大人と子どもにおいては異なります。なぜなら、恥の概念は、日本の特異な環境の中でしつけられる、後天的な知性であり、生来のものではないからです。それは、幼児から大人への過程の中で、日本の生活環境と日本人の価値観の中で、自ずから培われていくものです。ですから、換言するならば、幼児になればなる程、「恥」という概念は希薄であるとも予測できます。同時に、概して、幼児程無恥であり、無知であるからこそ、向上の課程では、何ら障壁となることはないと結論できます。

私共がホームステイプログラムの現場で、特に痛感した事の中に、概して、大学生、高校生グループと中学生グループのコミュニケーション能力は、歴然とした差は見られないということでした。確かに英語力や英語の語いの豊富さにおいては、かなりの差は見られますが、むしろ大学生、高校生グループに存在する大きなハンディに気づきました。すなわち、一通りの「英語を習った者」であるという自覚と、自我の確立された、もしくはその過渡期にある彼らの「自意識」が、「恥」という概念で再醸成し、「誤り」をおそれているように見えるのです。すなわち、英語を既にある程度学習しているがゆえに、「正確な英語を話さねばならない」という命令を生み出すとともに、間違ってはならないという「自尊心」と「恥の概念」が、結局は自由な会話を楽しむための大きな壁となるのでした。その点、中学三年生より中学二年生、中学二年生より中学一年生というように、若くなればなるほど、つまり、英語を学習している時間が少なければ少ないほど、英語を知らなければ知らないほど、無知と無恥が相互しあって、彼らが持っているあらゆる知識をしぼり出して、彼らは表現しようと、コミュニケーションをとろうと試みるのでした。すなわち、文型も、文法もなく、時には単語さえもなく、身ぶり手ぶりだけで自己を表現しようと躍起になります。このコミュニケーションしなければ生活できないという、ホームステイの持つ異文化での環境は、大袈裟に言えば一種の極限状態でしょうし、この環境の中で体裁のない自己を表現しようと試みる姿勢が、大変大事なものとなるわけです。外国人と接触する機会の少ない日本人には、この姿勢が非常に大切な事だと思われます。そして、これがコミュニケーション能力の原点だろうと思われます。そして、このコミュニケーション能力の原点に最も近い条件と環境を持っているのが、中学生のような若い世代だろうと思います。

 (ハ)可塑性について 〜豊富な情報量を〜

 私共のような大人たちが、一ヶ月外国で生活したからといって、海外で働きたいとか、将来は国際的な仕事をしたいとか決して思いませんし、旅行でまた行きたいなあと思うぐらいが関の山です。確かに大人たちの方が、少なくとも子ども達より現実的で、生活の厳しさや、緊張感をひしひしと感じているからだとは思います、しかし、それだけではありません。大人であることそのものが遠因となっているように思われます。

つまり、人間は自我確立の中で、あらゆる情報の中から、固定的な価値観を模索し、自分にとっての常識を鑑に判断基準を定め、それらの取捨選択を行って、自分自身の中に取り込んでいっているわけです。そして、これらのものを上手に使いながら、画一的な思考経路を無意識の中に構築してしまいまい、そこに安住しようとするのが常です。それは大人への道程なのですが、逆に考えてみれば、それら体系的価値基準の確立は、思索の硬化と価値の凍結に連結していることでもあります。すなわち、それらが確立された時点で、新鮮な情報への拒否が始まりますし、確立された自分自身の場所への怠惰な安住は、加齢と伴に際限がなく、硬直した価値体系には、新鮮な情報による思考も、多角的な視点も、緩慢な価値の変化にも対応することなく、ただ内部崩壊を拒絶しようとする防衛本能だけが見られるわけです。大人の大多数が保守的であるのもそのためであり、一般的に成功したと自認する大人が、より保守的な傾向があるのも、当然といえば当然なのでしょう。それが大人の宿命と言わねばなりません。

その点、自我確立以前の中学生は、非常に可塑性に富んでおります。すなわち、右から引けば右に動くし、左から引けば左に動きます、与えればいくらでも吸収するし、与えなければ何も吸収しません。ギリシャ神話において、大地創造の初めは、混沌(カオス)であったといいます。すなわち、あらゆる形のあるもの、ないもの、何も存在せず、どろどろとした区別のないもろもろの状態です。ここから光が生まれ、夜が生まれ、そして、あらゆるものが形を持ち、概念が生まれたわけですが、中学生の内面的構造は、この状態に非常に酪似していると考えられます。この自我の確立以前、すなわち可塑性に富む時代に、多くの情報と経験を提供することが、何においても大事なことだと思います。(注、もちろん、それらには選択も必要でしょうし、その後の指導が最も肝要な事ではありますが、それ以前の問題として)

彼らはいくらでも学習し、吸収いたします。そしてあらゆる異質の文化、生活様式、言語、風景、慣習、価値観、思考方法の相違など、新鮮で、興味深く、印象的で、魅力的で、何も拒否されることなく、経験によって学習し、多角的な情報の収集を基調として、単一文化下では体験できない価値を吸収することとなります。ホームステイにおけるこれらの体験が、非常に貴重であると断言できるのは、それが「包括的に異質のもの」だからです。包括的に異質であることの体験だからこそ、そこに「相対性」が根付くのであるということであり、これが非常に重要な部分だと思います。そして、この可塑性に富む時期における多角的な情報と経験による学習が、保護者の方々の願望である「スケールの大きな国際人」への一過程となるわけです。

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